「健康寿命延伸都市」を支える松本ヘルスバレー構想
超高齢社会化が進行する我が国においては、「介護保険」の存在が国民生活にとって不可欠な存在となっている。しかしその介護保険が国や地方自治体の財政を逼迫させる一因になっていることもまた事実である。
そんな状況に画期的な手法で風穴を開けようと奮闘する自治体が長野県松本市である。
松本市は、2016年度から要介護認定を必要としない地域支援事業における総合事業を開始させ、その結果認定者の伸び幅は2017年度以降横ばい傾向を見込めている。
その中核にあるのが「松本ヘルスバレー」構想である。それは一体どのような施策であろうか。
今回、自らを「健康寿命延伸都市」と標榜する松本市の担当者に話を聞いた。
取材にご協力いただいた方
- 松本市商工観光部 健康産業・企業立地担当 小林浩之部長(左)
- 松本市商工観光部 健康産業・企業立地課 丸山克彦係長(右)
※2018年10月取材時
第1章
「松本ヘルスバレー構想」誕生の背景
市民の健康を産業面から支える「松本ヘルスバレー構想」
2017年4月1日現在、我が国の総人口は1億2,676万1千人であり、そのうち65歳以上の高齢者人口は過去最高の3,489万8千人、高齢化率は27.5%に達している。
また、2015年には「団塊の世代」が高齢期を迎え、2025年にはこの層が75歳以上の後期高齢者になる。
これに伴い、2000年度から開始している介護保険制度においても、第一号被保険者数および要支援・要介護認定者数は増加の一途を辿っている。
特に要支援・要介護の認定者数については、制度の開始当初であった2000年には256万2千人であったが、2014年度末には605万8千人に至っており、その数は開始当初の237%にあたる。
介護保険自体は国民生活にとって不可欠な存在になる一方で、このままでは近い将来、介護保険の存在が財政を逼迫させる一因になることも自明である。
そんな状況に画期的な手法で風穴を開けようと奮闘する自治体がある。長野県松本市である。
松本市は、2016年度から要介護認定を必要としない地域支援事業における総合事業を開始させ、その結果認定者の伸び幅は2017年度以降横ばい傾向を見込めている。
自らを「健康寿命延伸都市」と標榜する松本市が推進する施策、それこそが市民の健康を産業面から支えるという「松本ヘルスバレー」構想だ。
「日本の平均的都市」松本市を取り巻く環境
松本市は長野県中信地方の中心都市であり、人口は長野市(37.7万人)に次ぐ24.1万人を擁す旧城下町である(※2016年時点)。また、周辺人口を合わせるとおよそ45万人に至る。
一方、市域面積は、2005年以降の周辺町村との合併を経て978.47平方キロメートル(県内1位)に至っており、これは東京23区と横浜市を足した面積に匹敵する。
この広域な面積を誇る同市には、人口集中区域に当たる中心市街地、その周辺にあたる人口密集地域、更に人口が少ない郊外地域の三つに大別される。
中心市街地にはドーナツ現象や高齢化世帯の増加といった問題が発生しており、その周辺地域には子育て世帯の増加よる教育環境の混雑や待機児童の問題も発生している。
また、郊外地域には過疎化の問題もある。
市全体の老年人口割合は27.2%(長野県は30.7%)で全国平均よりは少し高く、県平均よりは少し低いという状況だが、いずれにせよ高齢化が進行は他の市町村と同様に大きな課題である。
いわば松本市は、日本国内に存在するあらゆる人口に関する問題を包含している平均的な自治体と定義することができる。
広大な市域を持つ松本の福祉を支えるインフラ
その松本市が他の市町村と一線を画す従来からの取り組みの一つとして挙げられのが、広域に渡る市域を35の地区に分けたきめ細やかな地域包括ケアの体制である。
この区割りは国が推奨している中学校区を単位にしたものよりは小さな単位となっている。このことからも、松本市の地域包括ケアに対する取り組みの自主性が垣間見える。
松本市が行うこうした地域包括支援事業は、国(厚生労働省)が提唱する枠内にとどまらない「地域共生社会」という独自の方針に立脚しており、公民館など総務省系の末端機能や、はたまた産業機能、そして医療に至るまでの全てを横断的に課題解決していこうという考え方の表れである。
そして、その方針を支える象徴的な存在が「地区福祉ひろば」である。
市内35地区のそれぞれには、従来の公民館とは別に「地区福祉ひろば」という独自の施設が存在する。
これは「健康づくりのための公民館」と位置付けることができ、ここでは市民向けの運動イベントや健康づくりのための講座などが開催されている。
地域住民にとっては「交流サロン」、行政にとっては「地域福祉の拠点」とも言える施設であるが、特筆すべきはこの施設の運営は、基本的に地域住民の自主性に託されているという点である。
また、市内各所には他の市町村の支所・出張所にあたる「地域づくりセンター」があり、市役所と地域づくりセンター、そして地区福祉ひろばがまさに三位一体となることで様々な課題解決に取り組んでいる。
これが広大な市域面積を有す松本市の福祉行政を支えるインフラである。
「三ガク都のまち」を牽引する医療人市長
松本市を紹介するキーワードは、「3つのガク」である。それは、
- 山岳のまち「岳」都(上高地)
- 音楽のまち「楽」都(セイジ・オザワ 松本フェスティバル)
- 学問のまち「学」都(重要文化財:旧開智学校 信州大学本部)
を表すのだが、この「三ガク都のまち」を圧倒的なリーダーシップで牽引するのが、現職の市長である菅谷昭氏である。
その菅谷市長は、医療人というもう一つの顔を持つ。そう、市長は医師なのだ。
医療人という経歴を持つ、菅谷市長
医師の首長という事例は他にもあるが、その中でも菅谷市長は少々特殊な経験を積んできている。
それは菅谷市長が、チェルノブイリ原発事故が発生した際に現地で医療活動を行ったという経歴に起因している。
大学病院において甲状腺外科の専門医であった菅谷氏が、1986年4月にチェルノブイリ原子力発電所事故が発生した際に、現地の子どもたちに甲状腺がんが多発しているという情報を耳にした。そして大学を辞職。自費で現地に赴き、退職金が尽きるまでの5年間に渡り無料で医療活動を行ったという。
帰国後は一旦大学に戻るが、チェルノブイリでの経験が発端となり、更には自分の人生観も相まって、県の衛生部長へと転身。そして60歳で松本市長選挙に出馬し当選、松本市長に就任するに至った。
就任当初から「これからは量の時代ではなく、質の時代である」という考え方を標榜する菅谷市長。そんな市長をよく知る周囲の人は、市長の人物像を「政治的なノウハウではなく、自分の信念で動くタイプ」と評す。そしてその言葉の端々からは市長の中にある「圧倒的なリーダーシップ」も同時に伝わってくる。
「健康寿命延伸都市・松本」
松本市周辺には信州大学や松本歯科大学、そして夏川草介氏の小説「神様のカルテ」のモデルであり、小平奈緒さん(平昌オリンピック・女子スピードスケートの金メダリスト)が所属することでも有名な相澤病院などもある、医療環境と医師人材に恵まれたエリアである。
そんな松本市が、成熟型社会の都市モデルとして2008年より標榜しているのが「健康寿命延伸都市・松本」の創造というスローガンである。
松本市政は早い段階から「健康寿命」というワードに着眼しており、総合計画や基本計画の中でもこのワードが重要な位置づけとして取り扱われている。
また松本市な全ての基本政策は「健康」という言葉を交えて表現されている点も特徴的である。
具体的には、「人の健康」、「生活の健康」、「地域の健康」、「環境の健康」、「経済の健康」、そして「教育・文化の健康」の六つであるが、これはWHOが提唱する「社会的健康」という理念が背景にあるという。
このような「健康」に主眼を置いた市政が推進される背景には、前述した医療人としての菅谷市長の存在とリーダーシップがある、菅谷市長の健康に対する理念には、「量から質への転換」という思いが込められている。
当選1期目は、自身が掲げた公約はありつつまずは前市長の活動を踏襲し継続性を担保しながら政策を進めた時期であった。その上で、「子育て支援」、「健康づくり」、そして「危機管理」の3つを標榜し、これを「3Kプラン」と銘打った。この時点で「健康づくり」はテーマとして掲げられてはいたが、あくまで3つのプランの一環という位置づけであった。
そして2期目を迎えたときに、まさに「健康寿命」というキーワードが政策の中心に据えられた。
その時の市長から発せられたのが「長野県は平均寿命こそ長いが、これからは健康寿命の時代」という言葉であった。
松本市のある長野県といえば、長寿の県として広く認知されている。
平成27年度に厚生労働省が発表した「都道府県別生命表」によると、
- 全国の男性の平均寿命が80.77歳
- 全国の女性の平均寿命が87.01歳
であるのに対し、
- 長野県の男性の平均寿命が81.75歳で全国2位(1位は滋賀県で81.78歳)
- 長野県の女性の平均寿命が87.67歳で全国1位
となっている。
しかし、菅谷市長の視線の先にあるのは平均寿命ではない。平均寿命は「生きる量」を表す指標といえるが、これからの時代は自分がやりたいことに従い、自分の暮らしを決めていくことに価値を見出す、つまり「生きる質」が重要なのだと市長は言う。市民が自身の生きる質を高め、その質を維持しつつ一日も長く生きることに寄与する、それが市長の考える市政の骨子である。
こうした市長の理念が最初に具現化されたのは、2011年7月に設置された「松本地域健康産業推進協議会」である。
これは「松本ヘルスバレー構想」のプラットフォームに当たる組織だが、ではその松本ヘルスバレー構想とは一体何を目指すものなのであろうか。
三重県亀山市の旧東海道関宿
日本は世界に冠たる超高齢社会であり、2025年には「団塊の世代」が後期高齢者(75歳以上)となり、介護や福祉分野の需要はますます増え続け、介護予防や介護の問題、単身化や孤独の問題が急増する。
このため厚生労働省においては、2025年を目途に高齢者の尊厳の保持と自立生活の支援の目的のもとで、可能な限り住み慣れた地域で、自分らしい暮らしを人生の最期まで続けることができるよう、地域の包括的な支援・サービス提供体制(地域包括ケアシステム)の構築を推進している。
具体的に地域の行政はどのような取り組みをしているのだろうか。地域包括ケアシステムの構築をはじめた三重県亀山市を取材した。
取材にご協力いただいた方
- 三重県亀山市 健康福祉部 高齢障がい支援室 室長(兼)地域包括支援センター長 古田 秀樹 氏 (左)
- 三重県亀山市 健康福祉部 高齢者障がい支援室 副室長 藤本 泰子 氏 (中)
- 三重県亀山市内 田中内科医院 院長 田中 英樹 氏 (右)
※2014年2月取材時
第1章 ケアシステムの全体像
「在宅での看取り」を核とした
三位一体の地域包括ケアシステム
厚生労働省からは、「団塊の世代が75歳以上となる2025年を目途に、重度な要介護状態となっても住み慣れた地域で自分らしい暮らしを人生の最後まで続けることができるよう、住まい・医療・介護・予防・生活支援が一体的に提供される地域包括ケアシステムの構築を実現する」とある。そんな中、地方自治体はどのようなオペレーションを実施しているのだろうか。ここでは、三重県亀山市の取り組みを例に、地方自治体が実際に取り組む地域包括ケアシステムを紹介していく。
2014年2月 取材
「在宅での看取り」を核としたシステム構築
昨今の高齢化により、政府としても社会保障の観点から在宅医療・在宅介護を推し進めており、各県市区町村の行政としての対策も急務となっている。
しかし、今回取材を行った三重県亀山市では、医療費負担を上げる等の対策により、一方的に在宅医療・介護を市民に押し付けるような仕組みづくりをしているわけではない。
あくまでも本人と家族の意志を尊重し、福祉的な措置や手当を加えながら、医療・介護が受けられ、生まれ育った自宅で最期を看取る。つまり、本人及びその家族が喜ぶ、「在宅での看取り」を選択肢のコアにする事を目的にしている。
「行政」・「医療」・「介護」の三位一体のシステム
まず、「在宅での看取り」の受け皿となる体制づくりとして、行政主導のもと、ケアマネージャー・社会福祉士・保健師を中心とした、「行政」・「医療」・「介護」の三位一体の地域包括ケアシステムの構築を進めている。このシステム構築にあたり、モデルケースとしている他市があるそうだが、そこでは医療連携がメインであり、介護連携がうまくいっていないケースが目立つ。
ではなぜ亀山市は医療と介護の連携にこだわるのか…
それは、急性期病院や回復期病院から退院した後、在宅での生活を円滑に進めるためには、医療保険から介護保険への移行など、医療・介護に関わるスタッフが密接に連携して、シームレスにサービスを受けることができるよう、支援していく必要があるからだ。
また、同様の取り組みを医師会が主導で行う市区町村もあるようだが、亀山市はあくまでも行政が主導である。行政が主導であることにより、市民の声を取り入れやすく、また「在宅での看取り」の啓発活動も行うことができる。
更には、これまで医療業界と介護業界は隔たりがあったが、医療面を支える病院や診療所、介護面の2つの領域において重要な役割を担いハブとなるケアマネジャー、社会福祉士、保健師をキーパーソンとすることにより、連携しやすい環境が作られる。
具体的な活動としては、2013年3月より、在宅医療・介護に携わる事業社が参加する連携会議が開催されている。そこには、医師や看護師、歯科医師、薬剤師をはじめとする医療従事者、ケアマネージャー・ヘルパー、そして、市が運営する「地域包括支援センター」のケアマネージャー・社会福祉士をはじめとする介護従事者が参加し、各所の役割の明確化~情報共有を行う。
「リビング・ウィル」による本人意思の尊重~市民啓発へ
いくら三位一体の地域包括ネットワークが構築できたとしても、中には最新の医療技術を受けながら病院で最期を迎えたい、施設で最期を迎えたいという市民もいるだろう。
最終目的は「在宅での看取り」ができることであるが、その受け皿となる医療と介護の連携したネットワークを構築しながら、在宅医療・介護を押し付けるのではなく、あくまでも本人・家族の意志を尊重する。そのため多くの市民が「在宅での看取り」を望むよう、また理解を得るための啓発活動が欠かせない。
それにはメディア等を活用した一方的な情報発信ではなく、“最期をどう迎えたいのか”の意思を表明する「リビング・ウィル」というカードを発行している。このカードにより、本人がどう最期を迎えたいか、家族や親戚・知人と共にきちんと終末期について考える機会を市民に与えながら、在宅医療に対する理解が広まることを目指している。
この三位一体の地域包括システム構築と市民啓発は亀山市だから進められる要因がいくつかある。 以降の章でその理由について紹介していくとする。