「健康寿命延伸都市」を支える松本ヘルスバレー構想
第4章
松本ヘルス・ラボを活用した
テストフィールドの試み(実証事業の事例)
インタビューに応えていただいた、松本市商工観光部の小林氏と丸山氏
お口の健康に関する検証事業(食品メーカー)
まずは森永乳業株式会社の事例をご紹介する。森永乳業は、同社が開発した口臭抑制に効能があることが証明され、特許も取得している乳たんぱく質を含んだサプリメント商品がリリースしている。昨今、歯周病菌が心筋梗塞や脳梗塞を引き起こす血管疾患と因果関係があるという説に注目が集まっており、この商品が口の中の歯周病菌の抑制に効能が認められるかどうかを検証したいというのが、松本ヘルス・ラボに対する要請であった。仮にそれが証明できるのならば、現在の商品がうたう「お口をサポート」というコミュニケーションから「口腔環境の改善」に発展する可能性を見出せる。
この実証実験には松本ヘルス・ラボ会員の他、市内企業10社の従業員225名を含む計276名がモニタとして参加し、ここから口腔環境の改善効果の見込める対象者がスクリーニングされ、最終的な被験者は150人となった。つまり、元々健康な人と、症状が進んでしまっている人は対象から外されたわけだ。このような精巧なスクリーニングを行えるのは、前述したように松本ヘルス・ラボが会員の情報をデータとして蓄積しているからに他ならないのだが、このことは松本ヘルス・ラボが調査の場として企業から高い信頼と期待が得られる理由でもある。
なお、この実証実験の結果については、2018年11月に松本市で開催された世界健康首都会議にて、「松本ヘルス・ラボ実証報告」として松本歯科大学と森永乳業から発表された。またこの実験は、もうひとつの副次的なビジネスチャンスが生む可能性を秘めている。それは歯科医への来院促進である。
今、日本中の歯医者から患者が減っている。なぜならば虫歯そのものが減少しているからである。これは、日本人の中に虫歯予防の意識が高まった結果であり、喜ばしいことでもあるのだが、一方で歯科医にとっては非常に厳しい状況であることは言うまでもない。虫歯の患者自体は減っているのに、開業歯科自体は増加している。自ずと同業内の競争が激化する。そして競争原理に伴い治療単価は下がっている。そんな歯科医にとって、「歯周病予防が生活習慣病のリスクを減らす」という説は、数少ないビジネスチャンスの種となる。
しかし、そんなビジネスチャンスも、簡単に開花するものではない。例えば心疾患が疑われる市民がいたとする。しかしその疑いを歯医者に指摘されたとして、影響力を持つであろうか。心疾患というからには、やはり医者、特に内科医に指摘されないと真実味を帯びない、これが現実だ。反対に、「心疾患を防ぐためには歯を治せ」と内科医が進言したら、患者にとって大きな意識変容や行動変容のきっかけになり得る。
現時点でも、歯周病治療の重要性については、既に一定以上の認知はある。これはつまり、歯周病予防が単に歯科医の範囲だけでなく、内科の範疇までも含んだ横断的な予防医療であることと定義づけることに繋がり、ひいては医師全体の利害の一致、つまり共有価値が生んだことになったといえる。
話を戻し、改めて松本ヘルス・ラボで実証実験を行うことのメリットを整理してみる。
- モニタはインセンティブではなく、自身の健康管理と実験の社会的意義への寄与をモチベーションにして動くこと。
- モニタが実験の意義と全体像を理解しているため、完遂率が高いこと。
- モニタは高い精度でスクリーニングされており、被験者として適正であること
(ここでスクリーニングについて一点補足しておくと、松本ヘルス・ラボでは、一人のモニタが同時期に二つ以上の実証実験に参加しないようコントロールしている。これは違うヘルスケア施策が重なってしまい効能がバッティングする事態を防ぐためだ)
このような条件が担保されている民間調査は少なく、仮に存在しても高額な料金設定が想像できるが、それと比較して松本ヘルス・ラボでの実証事業費は低コストで実現できているという。
また、松本ヘルス・ラボでは、企業が松本ヘルス・ラボのテストフィールドを使って実証事業を行った際には、そこで証明された商品の効能について積極的に訴求することを歓迎しており、同時に「松本」という名前も積極的に露出して欲しいという。また参加してくれたモニタそれぞれに対する個人向けの結果報告と、この施策全体の成果報告会開催も条件として設定している。
もちろん実験という特性上、望ましい結果が出る場合もあるし、そうでない場合もある。その中で、仮に良い結果や今後に繋がりそうな結果が出た場合は、森永乳業の事例のように世界健康首都会議(松本ヘルス・ラボ 実証報告)や健康産業フォーラムなどで先進的な事例として公表し、松本市民は元より広く世間に周知されることを理想としている。
事実、過去にも実証実験に関する論文や学会での講演のサマリーを通じて、長野県松本市の名前が露出され、そこをきっかけにして企業からの問い合わせもあったそうだ。
企業としては、商品の効果効能のエビデンスを市民参加というオープンな環境で行った実証実験で得られ、更にはその事実を自由に露出できる権利を得ると共に、松本市が用意する媒体を通じて露出機会も与えられる。企業にとってはPR効果という意味において、得るものは大きいのではないか。
一方で、松本ヘルス・ラボの実証実験にも課題はある。それはモニタ集めに要する手間と時間である。
実証実験に要する期間は短いもので1か月、長いものでは半年に至るものもあるが、いずれもの場合も実験開始前段階においてモニタ募集のための説明会が開催される。その説明会には企業も同席し実験の趣旨を説明する。また趣旨説明を補足する目的の講演会を開催する場合もあるし、その後モニタの募集を行って実験が開始するのだが、その後も定期的にモニタが集まる場面がある。
このようなプロセスを経るため、ヘルス・ラボのスタッフは元より企業の担当者でさえモニタの半分以上と直に接する場面があるという(もちろん最終的に企業に渡るデータにおいては、モニタの個人情報はブラインド化する)。
法人化して約2年が経過する松本ヘルス・ラボには、現在4名のスタッフが在籍する。専務が1名、看護師が1名、そして企業との交渉やモニタの調整などを行う事務局員2名で構成される。いわば少人数のコーディネーター集団である。市民と企業を橋渡しするそのコーティネートのきめ細やかさが、良質のモニタの集積に繋がっているのだが、その一方で請け負える事業数や規模にも限りがある。松本ヘルス・ラボのテストフィールドを活用するためには、企業側もこれらの点についてあらかじめ理解し、かつ協働する体制を整備しておく必要がある。
保育園児の感染予防の検証事業
もうひとつ松本市のテストフィールドを活用した事例を紹介したい。そのタイトルは、「幼児を対象とした感染性腸炎やインフルエンザなど冬季感染症予防の可能性がある食品の効果検証」である。前述したお口の健康に関する実証実験が、事業体としての松本ヘルス・ラボの優位性を示す象徴的な事例であるのに対して、これは行政が主体になるからこそ実現したといえる、唯一無二の事例である。
まず特筆すべきは、この実証事業の対象はモニタ会員ではなく、松本市内の保育園に通う幼児だということだ。これを自治体として実施の方向に踏み切った松本市。その根拠はどこにあろうか。
(※写真はイメージです。記事とは直接の関係はありません。)
松本市内には、公立の保育園が43園、そして私立の保育園が10園あるが、その現場の労働環境は他の市町村と同様厳しいものがある。市街地周辺はニューファミリー層が増加し、待機児童問題も発生している。同時に、職員一人当たりが見るべき幼児人数は増加の一途を辿り、保育士の負担は増すばかりである。
そこへ表れたのが、感染予防が期待される食品である。保育士は常日頃から幼児の健康状態には細心の注意を払っている。当然、幼児が感染症を罹患するなどという事態はあってはならないことであり、そこに払う精神的、肉体的負担は計り知れない。だからこそその食品が幼児にとって本当に感染症予防に寄与する食品があるのであれば、保護者にも保育園にとっても大きなメリットとなる。
実証事業は、まず保育園を通じ保護者に対し説明を行うところから始まる。実験の概要と事業の趣旨を説明し協力を仰ぐ。その結果として約100名の幼児モニタの参加を得るに至った。言葉にすれば簡単であるが、ここに至るためには幾度の説明も行い、それこそ何度も保護者向けの説明会を開催したという。当事業には、公立の保育園だけ市内の民間の保育園も参加対象になった。
しかし、いくらメリットが想定されようとも、同時に保育園、としては不測の事態が発生するリスクを懸念する。この不安要素をいかに解消するか、ここが実証事業の最大のポイントとなる。そのために、もしこの実験に参加して食品を摂取した幼児に何らかの身体的異常が発生した場合に迅速に対応するための体制づくりが求められた。具体的には、市民それぞれのかかりつけ医院を含む小児向けの医療機関が、この実験の趣旨を理解し参画してもらう必要がある。市域面積が広い松本市において、この調整は簡単なことではない。
実験では、信州大学医学部が主導し、まずは、松本市の医師会の小児科グループに呼びかけを行ってコンセンサスを得た。そして、保護者がかかりつけの医師に「松本市が実施するモニタに参加している」旨を伝えれば、無料で感染症に関する検査が可能で、更に何か問題点が顕在化したらヘルス・ラボ及び、信州大学に連絡がいくようなシステムも作った。
このような体制づくりができた背景には、やはり行政が主導していることが大きく関係するだろう。一般企業の一商品開発のためのプロジェクトでここまでの体制を作るのは難しいし、おそらく発想も実現もしないであろう。行政が介在することと、彼らの事業に対する熱意が、信州大学と医師会、そして小児科の医師たちの理解とモチベーションを喚起したのだといえる。
つまり、ここでもコーディネーターとして松本ヘルス・ラボが大きく機能している。この場合、コーディネーターに託される最も重要な役割は「システムの破綻を防ぐこと」であり、具体的には「倫理委員会に承認される枠組み作り」になる。緻密さと熱意が求められる作業といえる。
また同事業においては、松本ヘルス・ラボのみならず、松本市側の調整力にも注目しておきたい。保育園との調整を行うためには他部署との連携が必要となる。実は松本市では、2014年時点で園児約1,200名参加の検証事業が実施された経緯があり、その時、園児のネットワークの基礎が構築されていた。
この点においても、良い意味での松本市役所の特異性がある。とかく縦割り行政と揶揄されがちの行政運営であるが、同事業を成功に導いたのは、松本市役所内での部署の枠を超えた横断的な動きと、それを可能にする風土に起因すると言ってもよいであろう。
松本ヘルスバレー構想について、熱意を持って説明してくださった小林氏
ショッピングモール内を健康指導士と闊歩する「イオンモールウォーキング」
会員向け健康プログラムとして、イオンモール松本と連携する「イオンモールウォーキング」。こちらはシンプルではあるが、興味深い点を含んだ施策となっている。イオンモールウォーキングは、文字通り広大なモール内を天候に左右されることなくウォーキングするイベントであり、毎週水曜日に開催されている。
特長的なのが、参加者がただ集まって歩くということではなく、ウォーキング集団の先頭に健康運動指導士を配していることである。
参加者は、指導士から健康づくりに関する説明を受けながら一緒に歩き、そして自身の健康に関する数値を見てもらうこともできる。
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平成29年10月のモールオープンから1年で、延べ1500人の市民が参加し、健康づくり以外にも参加者同士の仲間づくりやコミュニケーションの場としても機能しており、一方、企業(イオン)にとっても同社のイメージアップや店舗の気づきを創出する場として一役を担っているという。