第1回 日本人管理栄養士、NSTを知る

医療に関わる仕事で自分に最適だと思った管理栄養士の道に進んだものの、思い描いていた世界とは対極の仕事の現場に幻滅。しかしNSTの存在を知り、もっと学びたいとアメリカへ留学。帰国後は日本でNSTのパイオニアになりました。


管理栄養士の理想と現実

私は幼少時から医療に興味を抱いている子どもでした。幼いながら「大切な命をお預かりする尊い仕事のひとつだ」という思いがあったからでしょう。高校で化学が面白く得意科目になると、化学を生かした医療の道はないかと考えるようになり、薬剤師と管理栄養士という職業が該当すると知りました。薬を扱う薬剤師の場合、もちろん予防薬もありますが、基本的には病気になってからの登場ということになります。一方の管理栄養士は予防的な食事療法があるので病気になりづらい体づくりというところから関われるし、乳児から超高齢者までフィールドも幅広い。さらに薬は非日常的ですが食事は日常的なものですから、より患者さんに寄り添うことができるのではと考え、管理栄養士を目指すことにしました。

 

とはいえ、最初から高い志を持って北里保健衛生学院(現・北里大学保健衛生専門学院)に進学したわけではありません。向学心に火が付いたのは、実際に学び初めて、日頃の食生活次第で健康寿命が延びたりQOLが向上したりするということがわかってからです。しかも栄養次第で治療成績まで変わることも知り、栄養の奥深さにどんどん惹かれていきました。

 

「身につけた知識を臨床の現場で生かしたい」と就職先は病院を選び、卒業後は長野市の総合病院で働き始めました。管理栄養士はチーム医療の一員としての役目を果たせると学んできたこともあってやる気に満ちていたのですが、理想と現実のギャップは大きなものでした。日々の業務は厨房にこもって、ひたすら患者さんに提供する食事を作るだけ。管理栄養士としての知識を臨床で生かしたいという思いとはあまりに異なる現実に戸惑いました。ただ、当時の日本は管理栄養士も栄養士も「食事を作るのが仕事」という文化だったので、私が勤めたところに限らず、国内の病院ではこれが当たり前のことだったのです。

できることを模索する中で知ったNST

当然ながら、次に勤務した病院でも環境は変わりませんでした。むしろ初年度は食事を病室に配膳したり下げたりすること、食器を洗うことだけが私の仕事だったので、調理すらできなくなりました。学生時代にたくさんの知識を与えてくださった先生は医師の方が多かったので臨床をよくご存じで、「患者さんと関わって治療に貢献するという意識が大事」という信念があり、私にもその教えがしっかり根付いていました。それゆえに、その教えと現場でやっていることの格差にはずっと違和感がありました。

 

救いとなったのは、病棟への配膳・下膳の際に患者さんと直接会話できる機会があったことです。日々の業務の不満が知らず知らずのうちに顔に出ていたのか、ある患者さんから「兄ちゃん、どうした?」と声をかけられました。それがきっかけでその方と親しくなり、毎日さまざまな話をするようになりました。

しかしある日、いつものように病室に行ったところ空きベッドになっており、昨夜に病態が急変して亡くなったことを知りました。肩を落として上司にその旨を伝え、患者さんの名前や食事内容などが記載されている食札を渡す上司は「そうなんだ」とさらっと言い、私から受け取った食札をゴミ箱に捨てました。

そのとき心に湧いたのは、「私たち管理栄養士は初めて白衣に袖を通したあの日に『患者さんの命を全力で守る』と誓ったはずではなかったのか。人の死をなんだと思っているんだ」という憤りでした。

 

そこから私も変わりました。現状に不満を抱いているだけでは何も始まらない。自分から動かなければだめだと、担当業務を終えた後に病棟を回り、患者さんが食べられない原因や食べても痩せてしまう理由を毎日探すようになりました。上司からも看護師長からもいやな顔をされましたが、表面的には「すみません」と頭を下げつつ、病棟に通い続けました。

NSTではみな対等な立場で患者の命を守る

管理栄養士としてできることを模索する中で、アメリカの管理栄養士はベッドサイドで患者さんたちの治療に当たっているという情報を知り、それはすごいと驚きました。日本と同じ資格でそんなことをしているのかと。まだインターネットも普及しておらず情報収集も大変でしたが、それでもアメリカではNST(Nutrition Support Team)と呼ばれる栄養サポートチームがあり、そこで医師や看護師、薬剤師、そして栄養士が一緒になって患者さんの命を守るシステムということがわかりました。NSTにおける管理栄養士は栄養の専門家として重要な役割を担っているというのです。

自分のやりたいことはまさにこれだと確信し、すぐにでもNSTを学びたいと思ったのですが、1990年代初めの頃の日本にNSTを導入している病院はどこにもありませんでした。「勉強したいのに勉強できる場所がないなんて」と途方に暮れているとき、外資系製薬会社のMRの方が「どこの病院でもNSTを導入しているアメリカでなら勉強できますよ」と。なんでそんな簡単なことに気づかなかったのか、自分でも不思議です。余談ですが、そのMRの方は今も私のメンターのような役割をしてくれています。

 

早速、アメリカで研修を受け付けてくれている約30の大学病院に依頼の手紙を書いたところ、返事が来たのは2校のみ。いずれも受け入れOKで、研修期間は1校が3ヵ月、もう1校は4ヵ月だったので、「1日でも長くいられる方に行こう」と1993年、アトランタにあるエモリー大学医学部附属病院へ留学することにしました。結果的には留学後にそのまま入職したので、4ヵ月どころか約3年過ごすことになります。

 

現地で学び得たものは多岐にわたります。研修先で所属したのは臓器移植外科で、初日から病棟に出てNSTに加わりました。臓器移植はドナーとレシピエントがマッチングしたらすぐに移植しなければならないため、全症例がほぼ緊急手術です。私の師匠である先生は手術になれば手術室にこもりますから、その間の栄養管理は私が担当することになります。言葉の壁、医療従事者としての知識も不十分という状態でしたから苦労も多く、失態を師匠に叱責され涙を流したこともありました。それでも、日本で「これでいいのか」と思いながら悶々と過ごしている頃に比べたら、やりたかったことができている喜びのほうがはるかに大きい日々でした。

 

アメリカの医療従事者の「自分の身を削ってでも患者さんのために貢献する」「人の命を預かる仕事をしている」という姿勢には圧倒されるものがありました。栄養士も一様に職務に誇りを持っていて、「自分たちの努力や勉強の成果で患者さんの人生が変わる。人の命を預かる仕事をしているのだ」という意識が強いのです。

おのずと栄養士に対して現場で求められる知識や技術のレベルは高くなりますが、それをやりがいとして受け止め、誰もが生き生きと職務に尽力していました。治療の現場でも、医師や看護師などに栄養管理について提言すると「栄養の専門家が言うのだから」と受け入れられます。「医師だからえらい」とか「栄養士だから従わなければいけない」といった縛りなどなく、それぞれの専門領域に敬意があるからこそ成立しているシステムでした。管理栄養士にとってこれほどやりがいのあることはないと感じましたし、NSTを日本でも普及させたいという思いを強くしました。


プロフィール

宮澤 靖

みやざわ・やすし

長野県出身。1987年北里大学保健衛生専門学院栄養科卒業。JA長野厚生連篠ノ井総合病院(現:南長野医療センター篠ノ井総合病院)栄養科入職。93年アメリカジョージア州アトランタのエモリー大学医学部栄養代謝サポートチームに留学し、翌年米国静脈経腸栄養学会認定栄養サポート栄養士(NSD)となる。94年同大クロンフォード・ロングホスピタル栄養サポートレジデントに就任。95年に帰国後、長野市民病院にて全科型NST設立、JA三重鈴鹿中央総合病院にてNSTエグゼクティブディレクターとして日本初の専従スタッフとなる。2002年近森病院臨床栄養部部長、03年同院にてNSTを立ち上げる。19年より現職の東京医科大学病院栄養管理科科長、東京医科大学医学部講師。ほか京都光華女子大学客員教授、一般社団法人日本栄養経営実践協会代表理事、美作大学大学院臨床教授、甲南女子大学・高知学園大学非常勤講師、Emory University Hospital NST特別スタッフ。

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