「黒川由紀子の シニアの世界へようこそ」第3回 住まい
思い出の品々を整理しながら暮らす。 小さな家もお年寄りには幸せなのです。
「2世帯住宅にしたばかりに親子関係の仲が悪くなった」「一人で暮らしているとお友達やご近所さんが気兼ねなく遊びに来られ、楽しく暮らしています。寂しくないし、自由でいいです」「電気の交換とか、踏み台に昇らなくてはならず怖いです。近所の人に頼めると助かるのですが」といったお年寄りの暮らしの本音が、『いちばん未来のアイデアブック』(木楽舎)に紹介されているように、老後の住まいや暮らしのかたちはさまざまです。 その『いちばん未来のアイデアブック』を私とともに監修したルース・キャンベルさんは、現在、カリフォルニア州のCCRC(Continuing Care Retirement Community/継続的にケアされる高齢者のコミュニティ)に入居されています。サンフランシスコ郊外にあり、娘さんの家も近いので、お孫さんがしょっちゅう遊びに来るそうです。CCRCのマンションにはさまざまな人生を背負ってこられたお年寄りが暮らしておられ、「いい出会いに恵まれている」と満足そうにおっしゃっています。 十数年間、日本に滞在し、介護や認知症ケアについて研究されていたとき、ルースさんは小さな借家に住まわれ、アメリカに戻られてからもCCRCの小さめの家に暮らしています。ルースさんに限らず日本のお年寄りも、年齢を重ねるにつれて小さな家を好む傾向があるのかもしれません。不用になった荷物を処分したり、思い出の品々を整理したりしながら、コンパクトに暮らす。「小さい家も意外にいいね」と思えれば、幸せなのではないでしょうか。要は、家の中で何を大事にしたいのかということ。「お風呂」「本棚」「キッチン」など、「これだけは譲れない」という場所や設備が一つでも実現できれば、満たされた老後が過ごせるようにも思われます。 私は大学生のとき、老人ホームへインタビューに訪れたことがあります。畳の部屋に数人が寝るという昔のかたちの老人ホームでしたが、同じ環境に暮らしているのに、ある方は、「こんな姿になってしまって恥ずかしい。友達にも来てもらいたくない」とおっしゃいました。ところが、別の方は、「3度の食事がいただけて、掃除もみんなで分担し、あとは遊んでいればいい。こんな幸せな暮らしはありません」とおっしゃっていたのが、今も強烈な印象として記憶に残っています。同じ空間なのに、それを幸せと受け取れるか、不幸と考えてしまうか。施設での共同生活には、入所者のそれまでの生き方が表れるんだなと思いました。老人ホーム、シェアハウス、近居…。 何よりも自分がハッピーに暮らすこと。
一人暮らしはもう無理だろうと家族に言われ、自分の意志によらず、住み慣れた家を離れることを余儀なくされるお年寄りもおられます。住み慣れた家や地域から引っ越すのは、お年寄りにとってはかなりな苦痛を伴います。友達や仲間と別れ、慣れ親しんだ街を離れることは、人生の中でもかなり大きな変化を迫られることになりますから。最初のうちは引っ越しによる生活の変化をなかなか受け入れることができず、折り合いをつけるために自問自答を繰り返す方もおられます。 ただ、引っ越すのは悪いことばかりではなく、一人暮らしで話し相手もいなかった方が、「老人ホームに入って仲の良い友達ができた」と言うように、人生に良い変化が生まれるきっかけになり得ることもあります。 年輩の方と若者が一緒に暮らすシェアハウスもあります。炊事を分担したり、寂しさを紛らわしたり、そんなに豪勢な暮らしではなくても、生活の空間や時間を、年齢を超えてシェアするのもいいものです。家族のかたちにこだわらず、いろいろなかたちの暮らし方があってもいいと思います。 「近居」という暮らし方もあります。先述したルースさんも、娘さんがそばにいるという安心感を持って暮らしています。孫を迎えに行ったり、お母さんが帰ってくるまでCCRCの家で一緒に遊んだり。孫の世話をすることで娘の役に立てるということが生きがいの一つにもなっているのです。誰かに世話されるばかりではなく、自分が誰かの世話をすること。多くの年配者は、誰かの役に立ちたいと思っているのです。 ただ、誰かの役に立っていないといけないと思い込むのも窮屈です。とりたてて社会の役に立っていなくても、平気でいられるような自分をつくるのも大事かもしれません。今までいろいろな人のためになることをなさってきたのですし、何よりもご自身がハッピーでいることこそ、家族やまわりの人たちにとっては望ましいこととも言えるのですから。認知症の方の住まいは、シンプルに。 バリアフリーの一歩先の設備や機器を。
認知症の方にとっての住まいは、シンプルで心地よい環境であることが大事です。例えば、好きな音楽を聴きたいときも、ボタンを一つ押せば流れるような、単純な操作で機能する設備や機器が求められます。認知症の方の家族は、「音楽が好きだから」とCDプレイヤーなどを部屋に置かれることがあるのですが、認知症の方は電源をつけることさえできない場合が少なくありません。操作の簡単ではないCDプレイヤーを置いても、部屋に音楽は流れないのです。 あるいは、絵が描くことが好きな方には、身近なところに画材が置いてあって、いつでも絵が描けるというような環境を用意しましょう。バリアフリーの一歩先とでも言いましょうか、自分が好きなことをすぐに楽しむことができる住まいの設備や機器には、大きなニーズがあると思います。 さて、ご家族の意志で介護施設に入院した認知症の方には、自分の意に反する入院に憤りを覚えてらっしゃる方もおられます。カウンセリングを続けていくなかで、少しずつ気持ちがほぐれ、家族を許してもいいと思うようになるのですが、認知症の症状が進行して施設に入院することになる前に、自分自身で答えを出しておくことも重要です。もし自分がそうなった場合に、どういうところで、どんなふうに暮らしたいか、ご家族と事前に話し合っておきましょう。 認知症で判断能力がないとき、後見人が決めるという場合もあり得るのですが、それはなるべく避けたほうがいいと思います。自分の意志ではなく入院させられ、空き家になった家を勝手に売却されて、寂しい思い、悔しい思いをされたという方のお話を伺ったことがあります。それは、人権に関わる問題です。人権擁護団体などに相談するのも一つの対応策だと思います。 人権という意味では、認知症の方が徘徊しないようにと管理、監視する傾向が高まっているのも事実です。でも、人にとって最も大切にされるべきものは「自由」です。自由が損なわれ、安全ばかりが優先される社会は少々危険ではないでしょうか。もちろん、技術的に防げるのであれば工夫することに反対はしませんが、極端に安全を求め、住まいや施設だけではないあらゆるところに監視カメラが設置され、自由な行動を妨げられることに違和感を覚えずにはいられません。認知症の徘徊に限らず、どうやって「管理フリー」な社会をつくっていくかは、これからの私たちの課題でしょう。人は互いに迷惑をかけ、一方で助け合いながら生きていくものだということを忘れてはいけません。プロフィール
黒川由紀子 くろかわ・ゆきこ●1956年東京都生まれ。東京大学教育学部教育心理学科卒業。保健学博士、臨床心理士。東京大学医学部精神医学教室、大正大学教授、慶成会老年学研究所所長を経て、上智大学・同大学院教授。ミシガン大学老年学夏期セミナーの運営委員などを務めた。著書に、『日本の心理臨床5 高齢者と心理臨床』(誠信書房)、『いちばん未来のアイデアブック』(木楽舎/監修)など。 文=松井健太郎 写真=高岡 弘暮らしの楽しみ? もちろん食事。 年齢やスタイルに合った食べ方を。
お年寄りの方に「日々の暮らしの楽しみは?」と尋ねると、約42%の方が「食事」と答えるように、食べること、飲むことは、からだと心の健康のために欠かせない営みです。若い頃と同様に、何の問題もなく食事を楽しめる方はいいのですが、年齢を重ねるに伴ってさまざまな変化が生じてきます。 変化の一つは、食事の量。多くのお年寄りがおっしゃるのは、「レストランの食事は量が多い」ということ。「多ければ残してもいいですよ」と言われても、戦後の食糧難の時代に子ども時代を過ごした方々ですから、食べ物を残すことには抵抗があります。「残すのはもったいない」と。 そこで提案なのですが、若い方向けに「大盛り」があるように、お年寄り向けに「小盛り」があってもいいような気がします。ただ、ハーフポーションだからといって1000円を半額にする必要はなく、800円程度でいいのです。それなりの料金を支払って注文できれば、「お年寄り=安いお客さん」というような肩身の狭い思いをしなくてすみますから。あるいは、値段は1000円のまま、量は少なめでも多彩なおかずが味わえるといった高齢者向けのメニューも人気を呼びそうです。アメリカのシカゴにある年配者向けのレストランが成功していると聞いています。スモールポーションで、おいしくて。ただ、値段はちょっと高めだそうですが。 また、家で食べるにしろ、レストランで外食するにしろ、「一人で食事をするのは寂しい」とおっしゃるお年寄りは少なくありません。そんな方のために、高齢者が集まって食事を楽しむ会も開かれているようですが、私は、いわゆる「個食」もそれなりに重要だと考えています。一人の時間がほしいと思うお年寄りも意外におられますから、「個食はダメ」と決めつけるのはよくないでしょう。 普段は一人で食事して、ときには誰かと一緒に話しながら食べたいと思ったら、外へ出かけ、友だちや仲間と食べる機会をつくればいいのです。たとえば、近所にいきつけの居酒屋をつくるとか。居酒屋でアルバイトをしている学生に聞くと、「常連のお年寄りが一人で来られ、いろいろな会話をしますよ」と言っていました。そんな食事を楽しむ方もけっこうおられます。 料理がとびきりおいしくなくても、気さくな雰囲気で、お年寄りにも親切で。という人間力が高いお店は、「行きたくなる」とおっしゃいます。人と競争して、勝ってという価値観に生きていた若い頃は、「食事も勝負だ」と話題の高級店などに行きたがりますが、第一線を退いてからは、味はともかく、くつろいだ気分になれるお店がなにより。店員さんとちょっとした会話を交わしながら食事を楽しむというのも素敵な過ごし方だと思います。お年寄りの方は荷物の運搬に難儀。 常時、配達員がいれば人気スーパーに。
『いちばん未来のアイデアブック』(木楽舎)にあるように、「食事の準備が面倒だ」という声も多く聞かれますが、それ以上に、「食材を買いに行ったときの荷物の運搬」に困っているお年寄りがたくさんおられます。昔は、「御用聞きさん」が各家庭を回って、お米やお酒、味噌や醤油といった重い食材は配達に来てくれていましたが、今はあまり見かけなくなりました。トラックで街を回る移動販売車も都会ではあまり目にしません。復活すればいいのにと思うこともしばしばです。 ただ、最近は街のスーパーでも一定の金額以上の買い物をすれば、無料で配達してくれるサービスも増えてきました。とても便利だと思います。有料でもかまわないので、買い物をした金額にかかわらず荷物を配達してくれたら、きっとお年寄りの利用は増えるでしょうから行ってほしいですね。 また、大手スーパーでは、インターネットによる注文と配達を行っているところも見かけるようになりました。これも便利なシステムだと思います。インターネットを扱うことが苦手なお年寄りも多いですが、実は、そうしたインターネットを活用した買い物や配達の代行サービスのメリットをもっとも享受するのは高齢者かもしれません。より簡単に操作できるようになれば、利用はもっと増える気がします。 それから、私の知る年配の方がコンビニエンスストアで重い食材を買い物したときのエピソードがあります。そのコンビニでは、配達サービスは行っていなかったのですが、なんと店員さんは制服を脱ぎ、プライベートとして食材を家まで運んでくれたそうです。どこのコンビニかは聞きませんでしたが、ちょっと心が温まるお話です。 そんなふうに、買い物を始め、生活の細かな部分でのサービスや、あるいはボランティアが、案外少ないように感じます。足や腰を悪くされて、数百メートル先のスーパーにさえ買い物に行けない「買い物難民」のお年寄りは、都会にも多く暮らしておられます。安売りをアピールするだけではなく、御用聞きや配達サービスに力を入れているスーパーこそ、これからの時代は支持されるはず。常時、配達要員のアルバイトを雇っているような、高齢者にやさしいスーパーが増えるといいですね。認知症が進んだ方は嚥下障害に注意。 誤嚥性肺炎は死因の一つに挙げられます。
病院や施設に入所されているお年寄りにとっても、食事は大きな楽しみです。ただ、健康な歯の減少や味覚の変化、味覚障害など、食事の楽しみを阻害するからだの変化も起こってきます。 また、認知症が進んでくると、嚥下障害も見られるようになります。嚥下障害とは、口に入れたものを咀嚼した後、ゴクンと飲み込む際にうまく飲み込めないことを言います。飲み込めたとしても、食道に入るべきものが気道に入ってしまうと激しくむせてしまいます。これを、誤嚥と言います。一定の年齢を超えると誤嚥の頻度が高まります。気道から肺に入ってしまうことで肺炎を起こす誤嚥性肺炎は死因の一つにも挙げられるので、十分に注意する必要があります。本人だけでは防ぎようのない面もあるため、介護者のケアのしかたが重要になります。 最近は、嚥下障害があるお年寄りのために、「介護食」と呼ばれる食品も数多く開発、販売されています。品質は保持しつつ、喉に詰まらせずに食べられる食品を各メーカーが開発しています。適度なとろみがつけてあると飲み込みやすく、逆にするするとした液体状のものは喉に詰まりやすいようです。ただ、そうした介護食がすごくおいしいかというと、首をひねらざるを得ません。機能は備えているかもしれませんが、味わいには工夫の余地があるように思います。 介護食だけでなく、一般的な食品をお年寄り向けに開発する必要も感じています。その意味では、意外と言えば失礼かもしれませんが、コンビニエンスストアは工夫されているように思います。もっと多くの食品メーカーがお年寄り向けの食品をつくり、品数も豊富に取り揃えれば、食事の楽しさをより豊かに味わえるようになると思います。プロフィール
黒川由紀子 くろかわ・ゆきこ●1956年東京都生まれ。東京大学教育学部教育心理学科卒業。保健学博士、臨床心理士。東京大学医学部精神医学教室、大正大学教授、慶成会老年学研究所所長を経て、上智大学・同大学院教授。ミシガン大学老年学夏期セミナーの運営委員などを務めた。著書に、『日本の心理臨床5 高齢者と心理臨床』(誠信書房)、『いちばん未来のアイデアブック』(木楽舎/監修)など。文=松井健太郎
写真=高岡 弘
年を取ることは「痛みとの戦い」。
体力の衰えに応じてできる工夫を。
日本の平均寿命は84歳。世界1位です。健康寿命も年々伸びています。ただ同時に、長寿になったがために体力の衰えを実感する場面が増えていることも事実です。階段を若者がスタスタと駆け上がっていく姿を羨ましそうに見上げながら、手すりを握って一段一段昇ったり、昔はできた運動ができなくなったと感じたり。だからこそ、体力を維持、増強するための運動に関心が高い人が多いのでしょう。習慣的に運動している方の割合は、若者(20〜29歳)の16.5%に比べ、高齢者(70歳以上)は43.3%と圧倒的に高いのです。私がときどき行くジムには、杖をつきながら、あるいは車椅子に乗って来られる方もおられます。
体力が落ちるきっかけは、転んで骨折したり、長期入院するなど、ケガや病気が原因に挙げられますが、それよりも「痛み」が原因になる場合のほうが多いように感じます。肩、腰、膝、指……。年齢とともに体の節々に痛みを覚えるのは珍しいことではありません。むしろ、当然のこと。『いちばん未来のアイデアブック』(木楽舎)でも紹介しているように、「何か行動する前には自分の体と相談してから」と年輩の方はおっしゃいます。朝、起きたら、「肩よし」「膝よし」「心臓よし」と、指さし確認のように体をチェックする習慣を持つ方もおられます。年を取るということは、「痛みとの戦い」でもあるのです。
体の痛みが頻発すれば、気力も失われ、何をするにも億劫になりがちに。複数の用事ができなくなる方もおられます。「病院へ行った後、友達から食事に誘われているけど、膝が痛くなって行けなくなったらどうしよう」と、2つ目の用事に対して慎重になり、約束しなくなることも。そうして行動量が減り、ますます体力が衰えていくという悪循環に陥るのです。
そこで、年輩の方は工夫をします。体をケアするための運動を行ったり、食事に気を配ったり。さらに、ヒールはやめて靴底の滑り止めがしっかりした靴を履くとか、散歩に出かけるときは転びにくい道を選ぶとか。外部の環境に働きかけ、調整することによって、痛みやケガをできる限り回避し、体力の維持に努めるのです。
そんなふうに、痛みを受け入れながらも、体力を維持するためのアイデアを考え、暮らしに生かしておられます。一週間前はできなかったことが今日できたらうれしい気持ちになれますから。でも、けっして無理はしません。体力の衰えに応じてできることを工夫しながら、自分の限界をちょっと超えてみる運動にも挑戦しておられるのです。
財布から小銭がスムーズに出せない。
コンビニのレジに「シルバーレーン」を!
高齢になると、手先の巧緻性が低下します。指先の細かな運動が難しくなり、お財布の小銭がスムーズに取り出せないこともあるようです。そのため、スーパーやコンビニのレジでのお会計に時間がかかってしまい、後ろに並んでいる若い人にイライラされ、ますます萎縮して焦ったり。ほかのお客さんに迷惑をかけまいと、1000円札ばかりで支払っているうちに、お財布にどんどん小銭が増えてしまうという悩みを抱えている方も少なくないようです。
そんな高齢者のために、レジに「シルバーレーン」を設けてはいかがでしょうか? 年輩の方が比較的多く住んでおられる地域で、店内にある程度のスペースが確保できるようなら、ぜひ備えてほしいですね。若者の論理を高齢者に押し付けるのは間違っていますし、年輩の方がゆっくりと買い物ができればお店の売り上げも上がるでしょうから。
アメリカに住んでいた私の両親は、地域のコミュニティのプールに通っていましたが、そこには「シルバータイム」があり、年輩の方が気兼ねなく、安心して泳げる時間が設けられていました。高齢者へのリスペクトが感じられ、とても心地よかったようです。
さて、体力が衰えてくると、なるべく重いものを持ちたくないという気持ちも働きます。洋服一着にしても、「若いときはどんなに重たい服でも平気で着こなしていたけれど、重さのある洋服は体に負担がかかるので着たくない」とおっしゃるのです。「携帯電話さえ置いて出かけたい」と。暑い時期には熱中症予防のために水やお茶が入ったペットボトルを持ち歩く方が増えますが、年輩の方にとってはそれも重いので、10センチもない小さくて軽い容器に水を入れて携行するなど工夫されています。市販のペットボトル飲料も、ミニで軽量のものを発売すれば売れるかもしれません。
また、適度な力でコップやボールペンを握ることが難しくなることもあります。力の加減がうまくできないのでグラスを落としてしまったり、極端な場合は、握手をするときにものすごい力を出してしまって相手の方が骨折をしたという話も聞いたことがあります。そこまでいくと、かなり認知機能が低下しているのですが、程度の差こそあれ、力の調節は高齢者にとっては切実な問題の一つなのです。
認知症だからと特別視しないこと。
自分の「引き出し」から好きな運動を。
認知症の方でも、とくに初期の頃には体力が保たれている方は多いです。水泳を趣味にされ、1キロも泳ぎ切る方がおられれば、ゴルフを楽しまれている方もおられます。認知症だからといって、「泳いではいけない」「ゴルフは危ない」と何でも禁止するのはよくありません。大切なのは、認知症の方を特別視しないこと。
とは言え、歩いていたら迷子になってしまうこともあるでしょうから、周囲の人たちの配慮や工夫は必要です。安全に、安心して体力を維持、増強できる場を設けることが求められます。
一つ言えるのは、認知症の方は新しいことを習い覚えるのが難しくなってくるので、体力を維持、増強する場合でも、過去に体にインプットされた運動をすることをおすすめします。一度、自分のなかにどれだけ使える「引き出し」があるかを振り返ってみてはいかがでしょうか? 年を取ると習慣が頼りになってきます。習慣化されたような行動が幅広くあると、毎日をより楽しく過ごすことができそうです。若い頃にはよくハイキングに出かけていた、釣りが趣味だった、そういう過去の「引き出し」を思い出してみてください。新しいことを始めるのが負担な方は、「引き出し」にしまっていた趣味や運動を始めることもいいでしょう。始めるときに仲間がいると、なおいいかもしれません。自分が培ってきた経験を生かしながら、仲間と一緒に楽しく体を動かしましょう。認知症を予防するには、若いうちからそうした「引き出し」をなるべく増やしておくことも肝心です。
歩いたことがない方はほとんどおられないと思いますので、散歩もいいかもしれません。ただ、認知症の方の散歩には心配もつきもの。『東京都健康長寿医療センター』研究員の伊東美緒さんは認知症の方の散歩について研究されていて、認知症高齢者の散歩を地域のコミュニティで見守り、公園などでひとときの時間を一緒に過ごすということを実践されています。認知症高齢者対象の施設に入所すると、「もしも何かあったら」と考えてなかなか散歩に連れ出してもらえないようですが、散歩というシンプルな運動をいかに楽しく、豊かに、地域の方々にとっても有意義なかたちでつくっていけるか、社会全体で考える必要はあると思います。シルバーウォーキングの指導者が先頭に立って歩いたり、若いボランティアが声をかけながら散歩したりするのもコミュニケーションが図れていいかもしれませんね。
2016年8月
プロフィール
黒川由紀子
くろかわ・ゆきこ●1956年東京都生まれ。東京大学教育学部教育心理学科卒業。保健学博士、臨床心理士。東京大学医学部精神医学教室、大正大学教授、慶成会老年学研究所所長を経て、上智大学・同大学院教授。ミシガン大学老年学夏期セミナーの運営委員などを務めた。著書に、『日本の心理臨床5 高齢者と心理臨床』(誠信書房)、『いちばん未来のアイデアブック』(木楽舎/監修)など。
年輩の方も参加できる「ゆるスポーツ」。 外出のきっかけになることを期待。
『いちばん未来のアイデアブック』(木楽舎)のアンケート調査で、「日常生活で不自由を感じるのは?」と尋ねたところ、最も多かった回答が「外出するとき」(13.0%)でした。年輩の方にとって「街」は必ずしも快適な場所とは言えないようです。さらに、「外出先で困ることは?」と問うと、「道路に階段、段差、傾斜があったり、歩道が狭い」(15.2%)、「ベンチや椅子など休める場所が少ない」(13.7%)、「トイレが少ない、使いにくい」(11.3%)、「地下道路などが複雑で、どこを歩いているかわからなくなる」(5.2%)という回答が得られました。以前と比べると、駅にはエレベーターが設置されるなど街の環境は改善されてきたように感じる一方で、若い方が階段を勢いよく駆け下りるすぐそばでお年寄りの方が怖い思いをされている場面もしばしば見かけます。電車に女性専用車両があるように、街にもお年寄りの「専用レーン」が設けられ、ゆっくりと安心して歩いたり、階段を上り下りできる空間が増えればいいなと思います。連載の第1回で、アメリカのプールに「シルバータイム」という、年輩の方だけが泳げる時間が設けられているという話をしましたが、プールに限らず、日本の公園のジョギングコースや、駅やデパートに設置されているベンチにも、お年寄りが優先される「シルバータイム」を設けてはいかがでしょうか。 スポーツの話で思い出しましたが、皆さんは「ゆるスポーツ」をご存知ですか?年齢や性別、運動神経の良し悪しに関わらず、誰もが楽しめる新しいスポーツで、一般社団法人『世界ゆるスポーツ協会』という団体が考案し、普及させています。ゆるスポーツはいくつかのカテゴリーに分かれていて、そのなかの一つ、「ゆるスポヘルスケア」はお年寄りの方も簡単に参加できるもの。例えば、「打ち上げ花火」というゆるスポーツは、天井に光る的に向かって風船を投げ上げ、中心に近い的に当たると高得点を得られ、大きなデジタルの花火が打ち上がります。腕の上げ下げ運動や、首まわりのストレッチに効果があるようです。「トントンボイス相撲」は、紙相撲なのですが、手で土俵を叩くのではなく、「トントントン!」と声を発するとその振動が土俵に伝わり、紙の力士が相撲を取るというもの。高齢になると喉の機能が低下し、嚥下障害を起こすこともありますが、そのリハビリを楽しく行えるゆるスポーツです。 そんなユーモアあふれるゆるスポーツが、街なかの施設や公園で気軽に楽しめるようになれば、年輩の方が外出するきっかけの一つになるかもしれませんね。街全体がツルンとするのは反対。 バリアフリーよりも思いやりを。
前章で紹介した『いちばん未来のアイデアブック』のアンケートで、「道路の段差が困る」という回答が多く寄せられました。実は、私は4年ほど前、うかつにも転んで足首を骨折し、しばらくの間、車椅子に頼る生活を送ったことがあります。当時、上智大学に勤務していたのですが、それまでは気にならなかった微妙な段差がキャンパス内にたくさんあることに気づかされました。教室にたどり着くのもひと苦労です。雨が降るとさらに大変。車椅子では傘は差せませんから。両手を自由にするためにリュックがほしいと思いましたが、車椅子の背もたれにぶつかり、背負えません。 さらに、キャンパスから外へ出て、青山一丁目界隈に車椅子で散歩してみると、フラットだと思っていた道路が障害だらけなのにも驚きました。歩道の端も急勾配になっています。勾配を乗り越えるために相当な力を要しました。ですから、「道路の段差が困る」という回答に共感する部分は大いにあるのですが、かと言って、街全体が段差のないツルンとしたつくりになるのは個人的には反対です。私の知る80代の女性は、急な階段のあるアパートの2階に住んでおられます。体力の面で年相応の衰えがあり、階段を上がり下りされている姿は危なっかしくも見えるのですが、逆に、いい歩行訓練にもなっていると思いました。 そうした小さな「障害」さえも、街や建物から一切なくなり、女性もエレベーターで上り下りするようになったら、移動は楽にはなりますが、おそらく体力はさらに衰え、歩行時の注意力も低下することになるでしょう。それは、安全という名の大きな危険をはらむ街になること。経験者として、車椅子で移動できる道筋の確保は声を大にして求めたいことではありますが、極端なバリアフリー社会に移行することには反対です。完璧なバリアフリーよりも、街の段差で困っている高齢者や障害者を見かけたら、周囲の人が思いやりの手をさしのべることで乗り越えるのが、いちばん大事な未来のアイデアだと思うから。認知症に関する知識を事前に共有。 街全体で対応できる仕組みづくりを。
認知症の方にとっても、街は過ごしやすくあるべきです。今、「認知症サポーター養成講座」が全国で広がりを見せていますが、実際のところ、それを受講したからといって認知症に関する専門的な知識を得られるとは思えません。ただ、厚生労働省がコンセプトに掲げる「認知症高齢者等にやさしい地域づくり」に取り組むきっかけとして、受講者が増え、街に暮らす人々に理解が広まるのはよいことだと思っています。理解が広まった先に、どこへ連絡すれば対応を助けてもらえるのかというシステムができれば、なおよいですね。そうなれば、商店街のお店に認知症と思われるお客さんが来店した場合にも、互いが不安に陥らずにすむでしょうから。 前頭側頭型認知症(ピック病)の患者さんは、万引きをしてしまう可能性があります。もちろん万引きは犯罪ですが、認知症の症状の一つでもあるわけです。そこで、当事者が行きそうな店を事前に訪れ、事情を説明し、「もしも商品を盗んでしまった場合には必ず返しますので、そういう行動が見られたら電話連絡をください」という対応をされているご家族もおられます。そうした万引きの背景には、認知症の可能性があるという知識も一般的にあまり知られてはいません。そうした知識も、より多くの方々に知ってもらいたいです。事前に共有できていれば、大きなトラブルに発展することも少なくなるでしょう。 そんな、認知症の方が暮らしやすい街づくりを目指して取り組んでおられるのが、東京・世田谷区のNPO『語らいの家』代表の坪井信子さんです。NPOのある成城で、認知症の方に対してフレンドリーな店舗や施設を示した街のマップを制作されました。マップは、認知症の当事者や家族、あるいは、店舗や施設で働く従業員が利用されているようです。マッピングされた店舗や施設の従業員は、認知症の方への対応の訓練を受けたり、対応できない場合にサポートを求める施設とつながりを持ったり、「監視」という考え方ではなく、困ったときに街全体で対応できる仕組みをつくられたのです。「一主婦」だった坪井さんの先駆的な活動は、今や全国に知られるようになり、海外からも視察に訪れるほど注目を集めています。 超高齢社会に突入した今、認知症を患う高齢者もますます増えていくと思われます。認知症の方々が街にたくさんおられることを前提にした街づくりを、当事者や家族を含めた街に暮らす人々、店舗や施設、行政が一緒になって考えなければいけない時代が訪れているのです。2017年9月
プロフィール
黒川由紀子 くろかわ・ゆきこ●1956年東京都生まれ。東京大学教育学部教育心理学科卒業。保健学博士、臨床心理士。東京大学医学部精神医学教室、大正大学教授、慶成会老年学研究所所長を経て、上智大学名誉教授、慶成会老年学研究所特別顧問。ミシガン大学老年学夏期セミナーの運営委員などを務めた。著書に、『日本の心理臨床5 高齢者と心理臨床』(誠信書房)、『いちばん未来のアイデアブック』(木楽舎/監修)など。 文=松井健太郎 写真=高岡 弘「いい関係だけで人とつながっていたら、 その人の人生はとてもつまらない」
「いい関係だけで人とつながっていたら、その人の人生はとてもつまらない」。これは私が大学生のとき、卒論制作のためにいろいろな方にインビューをしていたなかで、ある方に言われた言葉です。今も思い出すことがあります。人は誰しも、性格が合わない人や自分を苦しめる人との関係よりも、楽しくて、建設的なおつきあいができる相手を求めます。年輩の方も同じです。ただ、この言葉の意味を考えるうちに、「どうしようもない人だな」と苦笑いしてしまうような相手との関係も、実は、自分を変えてくれることもあるということを私も理解できるようになってきました。 “もやもや”を自分に与えてくれる人の力とでも言いましょうか、嫌な相手がもやもやした人間なのではなく、もやもやの種は自分のなかにあるということに気づいたのです。自分のなかにあるもやもやの種を、嫌な相手に刺激されるから心がもやもやするのです。刺激されることで、嫌な気分になりはしますが、後々、心の幅が広がったり、考え方に深みが増したりすることもあります。クリエイティブなものに変換されたり、建設的で視野の広い考えを得られることもあります。そういった、困難を伴う人づきあいをさんざん経験してこられたのが年輩者なのです。人づきあいの奥深さを熟知された人間関係のエキスパート。そんな年輩者は、何歳になられても未知の出会いを大切にされるし、逆に、自分にとって必要ではない人づきあいに対しては「NO!」と言えるのだと思います。 過去にわだかまりがあった人と久しぶりに再会し、和解した方もおられます。高校生の頃、自分を虐めていたクラスメートがいて、「何十年経っても許せない」と言っていたはずなのに、何かの機会に再会し、互いに話すうちに仲直りすることができ、「今度、一緒に老人ホームを見学に行こう」と微笑ましいおつきあいが始まったという話を聞きました。さすが、人間関係のエキスパート。相手を非難しつつも、同時に許す心も持ち合わせておられたのです。 家族との関係にもエキスパートぶりを発揮できればいいですね。息子や娘夫婦、あるいは孫が、自分の代わりに用事を行ってくれたときも、意地を張らずに、「助かるわ、ありがとう」と言って受け入れる姿勢を育むと関係がうまくいくはずです。これまでは家族の中心的存在だった自分が果たしていた役割を次世代の主役に奪われるようで切ない気持ちになるかもしれませんが、「助かるわ、ありがとう」とお願いする。どうしても譲れないことは「大丈夫。自分でやるから」と断ればいいのですが、どちらがやってもいいようなことで「やりますよ」と言われたときは、任せればいいと思います。それも、家族内の人間関係を円満にする一つの方法でしょう。 一人の人間が、大人として、 発する言葉をもっと尊重すべきでは? 一人暮らしの高齢者は人づきあいをしていないというのは、よくある誤解の一つです。一人暮らしという言葉をすぐに孤独や孤立と結びつけるのはよくありません。一人暮らしは惨めだとか、可哀想だとか、パートナーや家族はいないのかといった偏見にも近い見方は捨て、個に対してその存在をもっと尊重するべきだと私は思います。 もちろん、誰かと話したい、つながりたいのに一人になってしまっている高齢者もおられます。その場合は、地域の集まりに誘ってあげるなど、行政を含めて何らかのサポートを行うべきでしょう。ただ、一人暮らしを楽しんでおられる年輩の方も大勢おられます。私は、高齢になっても一人で生きている方は格好いいと感じます。例えば、雪深い東北の山奥で一人暮らしをしている年輩の女性がいる。子どもは東京で暮らしているから、冬の雪下ろしもできない。近所の人に手伝ってもらうしかない暮らしぶりを、子どもは東京で心配している。だから、東京に呼び寄せようと考え、家を新築する。しかし、女性は断固拒否。今、東京に行ってしまったら、自分の暮らしが根こそぎなくなってしまうから。当然ですよね。高齢者はただ生きていればいいというものでは決してなく、たとえ雪深い地域で、何か起こってもそれが本望だとしたら、その女性の思いや生き方を尊重すべきです。もちろん、放っておくわけではなく、折に触れて電話をかけたり、訪ねることは必要です。 最近、つくづく思うのです。一人の人間が大人として発する言葉をもっと尊重すべきなのではないかと。長い人生を生き抜いてこられた年輩者の言葉を信頼し、尊重しようという思いがとみに強くなってきた気がします。一人で山奥に住んでいるだけで、「何か手を打たなければ」とネガティブに見られる傾向がありますが、それもその女性が選んだ人生。高齢者対策の対象ではないのです。 今、地域の高齢者と交流しながら楽しく暮らす若い人たちが増えています。都会から移住しているようです。そんな若者と年輩の方々の交流がもっと増えれば、世の中も変わっていくかもしれませんね。血縁だけによらなくても、世代を超えたいい人づきあいが生まれる可能性が、地方にも、都会にもあると思います。 なぜ、毎朝4時に起きるのか? その人らしさが発揮できる環境を。 認知症の方と関わるときの大前提は、普通に接すること。認知症と言っても、実は一般的に思い描かれているような行動を取る方はそれほど多くはないのです。初期の段階ではとくに。ただ、その後、進行してしまい、頻繁に迷子になったり、言ったことを忘れてものごとがこじれたり、財産や経済的な管理が難しくなって家族のあいだで摩擦や争いごとが起こるケースもありますが、もの忘れがひどい程度の初期の段階では、普通に接するように心がけてほしいです。そして、認知症にも多様なかたちがありますから、どんな性格か、何を好み、何を好まないか、どういう生き方をしてこられたかなど、一人の人間として、その方の個性をよく理解した上で関わることが大事です。 東京・世田谷区に「かたらい」というグループホームがあります。高齢者施設や病院では普通、起床時間や消灯時間が決まっていますが、「かたらい」にはありません。運営されているNPO「語らいの家」代表の坪井信子さんに伺うと、「朝4時に起きる人も、10時に起きる人も、私たちは認めています」とおっしゃいました。毎朝4時に起きる認知症の方のご家族に伺うと、「4時に起きて、家の掃除をしていました」とのこと。それを聞いた坪井さんはその方に、「よろしければ、施設のお掃除をしていただけますか?」とお願いいたら、喜んで掃除をされるようになったということです。なぜ4時に起きるのかという理由を知り、その人らしさを発揮してもらう。そんな、認知症の方一人ひとりの生活を尊重するような関わりが大事という象徴的なお話です。 こんなお話もあります。今の年輩の男性はあまり料理をしません。グループホームで、料理なんか絶対にしないとおっしゃっていたある男性が、あるとき突然、料理をしていた人たちに混じって、野菜を切り始めたのです。職員はとても驚かれたようです。聞けば、戦時中に軍隊で料理をした経験があり、それを思い出したと。私はそのお話を聞き、一人ひとりのなかに眠っている思わぬヒストリーや力を発掘できるような環境や関わり方が施設にあればと思いました。 私たちが実践している回想法は、薬に頼らず、その方のヒストリーやその方らしさが浮かび上がってくるような方法論を開発してきました。薬によらない関わり方がファーストチョイスだと厚生労働省も定め、制限付きではありますが保険点数もついています。認知症の方は不安に陥ると悪い方向へ向かいやすいので、「私はここにいてよくて、誰も私をおびやかさない」という心理的に安心できる状況を、家族だけでは大変なので、いろいろな方のサポートを借りながらつくり、個を尊重しながら関わっていくようにしたいですね。2017年5月
プロフィール
黒川由紀子 くろかわ・ゆきこ●1956年東京都生まれ。東京大学教育学部教育心理学科卒業。保健学博士、臨床心理士。東京大学医学部精神医学教室、大正大学教授、慶成会老年学研究所所長を経て、上智大学名誉教授、慶成会老年学研究所特別顧問。ミシガン大学老年学夏期セミナーの運営委員などを務めた。著書に、『日本の心理臨床5 高齢者と心理臨床』(誠信書房)、『いちばん未来のアイデアブック』(木楽舎/監修)など。 文=松井健太郎 写真=高岡 弘家の冷蔵庫にマヨネーズが18個。 もの忘れがひどくなり、認知症の疑いも。
年齢を重ねると、もの忘れが頻繁になってきます。人の名前が思い出せないのは日常茶飯事で、「あの人と、あそこへ行って、あれしたじゃない?」という「あれ」が頻発する会話も増えてきます。外出するときに鍵をどこに置いたか思い出せずに困ったり、お会計のときに鞄に財布が入っていなくて恥ずかしい思いをしたり。その程度のもの忘れ体験ならまだ笑い話で済むかもしれませんが、もの忘れの度合いが進行すると、電車やバスに乗っても、自分がどこへ行こうとしていたのか、降りる駅や停留所の名前も忘れてしまって延々と乗り続けるという怖い経験をすることにもなってしまいます。 もの忘れの段階を超え、認知症の疑いが見られるようになると、物事を忘れないための対策が必要になります。たとえば、薬の飲み忘れを防ぐためには、朝・昼・晩ごとに飲む薬を入れておくポケットがついた「カレンダー式の薬入れ」も販売されています。飲むべき時刻にアラームが鳴って知らせてくれるアラーム式のものもあり、薬を飲んだか飲んでいないかが一目でわかります。それでも、飲むのを忘れる方も多いようで、ホームヘルパーさんが訪問すると、長期間、薬を飲んでいなかったという話も耳にします。薬を飲まなければ命にかかわるような方にとっては深刻な問題です。あるいは逆に、薬を飲んだことを忘れて、何回も飲んでしまう方は副作用が心配です。大事な薬を飲むことを自分でコントロールできない場合は、家族やヘルパーさんのサポートが必要でしょう。 スーパーに買い物に出かけたとき、何を買いに来たのかを忘れてしまう方がおられます。あるいは、自分にとってはないと不安になるようなものをつい買ってしまうというケースもあります。マヨネーズが冷蔵庫に18個もあるという方もそう。一般的には認知症と言われるレベルですが、そんな場合に薦めるのは、「家にあるものリスト」をポケットか財布に入れて買い物に行くこと。普通は「買うものリスト」を書いて行くのですが、逆です。すでに家にあり、買う必要のないものを書いておくのです。そうすれば、マヨネーズを大量に買うこともなくなるはず。ただ、そのリストを持っていることすら忘れてしまうと意味はないのですが……。「またマヨネーズ。買っちゃダメって何度言ったらわかるの!」と家族はつい怒ってしまいがちですが、怒っても効果はありません。ある種の病気だというふうに理解し、穏やかに見守ってほしいものです。 心配な方は「もの忘れ外来」へ。 回想法という思い出を語る治療法も。 もの忘れが頻繁になると、年輩の方々は「このまま認知症になったらどうしよう」と先のことを心配されます。そんな方々のために、最近、病院に設置されてきているのが「もの忘れ外来」です。もの忘れ外来の診療は、大きく分けて2つあります。脳の画像検査と神経心理学的な検査です。それらの検査で、もしも認知症の疑いやMCI(認知症の前段階)と診断された場合は、薬物治療、もしくは、回想法や脳トレーニングなどの非薬物治療を受けることを薦められ、本人が受けたいと思えばそうした治療に参加します。 MCIかどうかを判断する際に、記憶は重要な要素になりますので、少し記憶の機能について話します。頭の中に蓄えられている記憶を思い出す際には、2種類の思い出し方があります。たとえば、目の前にいる友人の名前を直接、思い出すことを「再生」と言います。「この方は誰ですか?」と聞けば、「鈴木さん」と答えます。これが再生です。他方、「この方は誰ですか?」と聞かれても思い出せないとき、こちらからヒントを出します。「鈴木さんか、佐藤さんか、田中さんです」。すると、「ああ、鈴木さんです」と思い出します。この思い出し方を「再認」と呼びます。私たちが高齢者や認知症の方に対して行っている回想法も、再認の方法を応用しながら関わっています。「どちらのお生まれですか?」と尋ね、相手が思い出すことができない場合は、「北の方でしたっけ?」「冬は寒くありませんでしたか?」「北海道とか、青森とか?」とヒントを出していきます。すると、「そう、北海道」と思い出すことができるのです。記憶は、認知症になっても頭の中に蓄えられています。もの忘れがひどい方の記憶の貯蔵庫にもちゃんと保管されています。ただ、それを取り出すことが困難になっているだけなのです。 ヒントを出すためには、その方の情報を得ている必要があります。あらかじめご家族にお話を伺うなど準備をしたうえで関わります。あるいは、回想法を続けるうちに徐々に本人の記憶がつながっていって、「そういえば」と思い出すことが重要な情報源になることもあります。建築を学ぶ大学院生が回想法で修士論文を書いたことがあり、そのとき、思い出の家を再現するという回想法を行いました。子どもの頃、新潟に住んでいて、家の近くに川が流れていて、と思い出しながらそれを絵に描いていきます。広い庭があって、奥に鳥居があってと話すと、画用紙で鳥居をつくり、目の前に立てます。その鳥居を見て、「そういえば」と、「塀の向こうの家には怖いおばあちゃんが住んでいて、庭に実った柿を『よこしなさい』と言われて怖かった」と、その方は思い出されました。鳥居という刺激が目の前に提示されることで、頭の中に眠っていた記憶が呼び覚まされたのです。そういう瞬間は感動的です。「怖かった」と心が動いたような記憶は、おそらく記憶の貯蔵庫の取り出しやすいところにあるのかもしれません。 例えば、自分で紙に書き、置いておく。 記憶を取り出す力の低下を補う工夫を。 記憶を取り出す力の低下を感じてきたら、それを補う工夫を楽しみながら行うといいと思います。しばらく前、私の母が心筋梗塞で入院しました。救急車で運ばれ、ICUに入るほど危険な状態でした。入院中、母は何度も「ここはどこ?」「なんでここにいるの?」と繰り返しました。「突然倒れて救急車で運ばれ、入院しているのよ」と説明しても、翌日にはまた「なんでここにいるの?」と不満げな表情で聞いてくるのです。母のその状態に、妙案で対抗したのは6人いる孫の一人でした。ベッドのそばにあった折り紙に、「何月何日、焼鳥屋さんで倒れて、救急車で、○○病院に入院」と母(孫にとっては祖母)と一緒に思い出しながら、母の手で書いてもらったのです。「緊急手術、成功」と。「子どもたち(祖母にとっては孫)が、お医者さんに何回も、『手術、痛くしないで』と言ってくれた♡」。少し乱れた字でしたが、自筆で書いたものをベッドの台の上に置いておくと、自分の状況を理解するようになりました。これは、リアリティ・オリエンテーションという専門家が使う方法です。それを知ってか知らずか、孫が行ったのには感心しました。その後も孫たちは、途切れないようにシフトを組んで母を看病し、無事退院することができました。 自筆で書くと、自分の置かれた状況を否定できなくなるという効果もあります。これは販売業に携わっている方から聞いたことですが、確かに本人が注文しているのに、自宅にものが届くと「注文していない」とおっしゃる方がいると。お年寄りのお客さんに多いそうです。そこで、注文票の住所や名前を自分で書いてもらうようにしたと。すると、「私が書いたのか……」と理解して、苦情を取り下げるようになったそうです。そんなふうに、記憶の低下を補うための工夫はいろいあるはずです。そもそも、私たちは体験したことのほとんどは忘れて生活しているのですから、もの忘れや記憶の低下を悲観しないで、楽しく思い出せる方法を実践してみてはいかがでしょうか。2017年1月