「黒川由紀子の シニアの世界へようこそ」第4回 記憶
文=松井健太郎
写真=高岡 弘
家の冷蔵庫にマヨネーズが18個。
もの忘れがひどくなり、認知症の疑いも。
年齢を重ねると、もの忘れが頻繁になってきます。人の名前が思い出せないのは日常茶飯事で、「あの人と、あそこへ行って、あれしたじゃない?」という「あれ」が頻発する会話も増えてきます。外出するときに鍵をどこに置いたか思い出せずに困ったり、お会計のときに鞄に財布が入っていなくて恥ずかしい思いをしたり。その程度のもの忘れ体験ならまだ笑い話で済むかもしれませんが、もの忘れの度合いが進行すると、電車やバスに乗っても、自分がどこへ行こうとしていたのか、降りる駅や停留所の名前も忘れてしまって延々と乗り続けるという怖い経験をすることにもなってしまいます。
もの忘れの段階を超え、認知症の疑いが見られるようになると、物事を忘れないための対策が必要になります。たとえば、薬の飲み忘れを防ぐためには、朝・昼・晩ごとに飲む薬を入れておくポケットがついた「カレンダー式の薬入れ」も販売されています。飲むべき時刻にアラームが鳴って知らせてくれるアラーム式のものもあり、薬を飲んだか飲んでいないかが一目でわかります。それでも、飲むのを忘れる方も多いようで、ホームヘルパーさんが訪問すると、長期間、薬を飲んでいなかったという話も耳にします。薬を飲まなければ命にかかわるような方にとっては深刻な問題です。あるいは逆に、薬を飲んだことを忘れて、何回も飲んでしまう方は副作用が心配です。大事な薬を飲むことを自分でコントロールできない場合は、家族やヘルパーさんのサポートが必要でしょう。
スーパーに買い物に出かけたとき、何を買いに来たのかを忘れてしまう方がおられます。あるいは、自分にとってはないと不安になるようなものをつい買ってしまうというケースもあります。マヨネーズが冷蔵庫に18個もあるという方もそう。一般的には認知症と言われるレベルですが、そんな場合に薦めるのは、「家にあるものリスト」をポケットか財布に入れて買い物に行くこと。普通は「買うものリスト」を書いて行くのですが、逆です。すでに家にあり、買う必要のないものを書いておくのです。そうすれば、マヨネーズを大量に買うこともなくなるはず。ただ、そのリストを持っていることすら忘れてしまうと意味はないのですが……。「またマヨネーズ。買っちゃダメって何度言ったらわかるの!」と家族はつい怒ってしまいがちですが、怒っても効果はありません。ある種の病気だというふうに理解し、穏やかに見守ってほしいものです。
心配な方は「もの忘れ外来」へ。
回想法という思い出を語る治療法も。
もの忘れが頻繁になると、年輩の方々は「このまま認知症になったらどうしよう」と先のことを心配されます。そんな方々のために、最近、病院に設置されてきているのが「もの忘れ外来」です。もの忘れ外来の診療は、大きく分けて2つあります。脳の画像検査と神経心理学的な検査です。それらの検査で、もしも認知症の疑いやMCI(認知症の前段階)と診断された場合は、薬物治療、もしくは、回想法や脳トレーニングなどの非薬物治療を受けることを薦められ、本人が受けたいと思えばそうした治療に参加します。
MCIかどうかを判断する際に、記憶は重要な要素になりますので、少し記憶の機能について話します。頭の中に蓄えられている記憶を思い出す際には、2種類の思い出し方があります。たとえば、目の前にいる友人の名前を直接、思い出すことを「再生」と言います。「この方は誰ですか?」と聞けば、「鈴木さん」と答えます。これが再生です。他方、「この方は誰ですか?」と聞かれても思い出せないとき、こちらからヒントを出します。「鈴木さんか、佐藤さんか、田中さんです」。すると、「ああ、鈴木さんです」と思い出します。この思い出し方を「再認」と呼びます。私たちが高齢者や認知症の方に対して行っている回想法も、再認の方法を応用しながら関わっています。「どちらのお生まれですか?」と尋ね、相手が思い出すことができない場合は、「北の方でしたっけ?」「冬は寒くありませんでしたか?」「北海道とか、青森とか?」とヒントを出していきます。すると、「そう、北海道」と思い出すことができるのです。記憶は、認知症になっても頭の中に蓄えられています。もの忘れがひどい方の記憶の貯蔵庫にもちゃんと保管されています。ただ、それを取り出すことが困難になっているだけなのです。
ヒントを出すためには、その方の情報を得ている必要があります。あらかじめご家族にお話を伺うなど準備をしたうえで関わります。あるいは、回想法を続けるうちに徐々に本人の記憶がつながっていって、「そういえば」と思い出すことが重要な情報源になることもあります。建築を学ぶ大学院生が回想法で修士論文を書いたことがあり、そのとき、思い出の家を再現するという回想法を行いました。子どもの頃、新潟に住んでいて、家の近くに川が流れていて、と思い出しながらそれを絵に描いていきます。広い庭があって、奥に鳥居があってと話すと、画用紙で鳥居をつくり、目の前に立てます。その鳥居を見て、「そういえば」と、「塀の向こうの家には怖いおばあちゃんが住んでいて、庭に実った柿を『よこしなさい』と言われて怖かった」と、その方は思い出されました。鳥居という刺激が目の前に提示されることで、頭の中に眠っていた記憶が呼び覚まされたのです。そういう瞬間は感動的です。「怖かった」と心が動いたような記憶は、おそらく記憶の貯蔵庫の取り出しやすいところにあるのかもしれません。
例えば、自分で紙に書き、置いておく。
記憶を取り出す力の低下を補う工夫を。
記憶を取り出す力の低下を感じてきたら、それを補う工夫を楽しみながら行うといいと思います。しばらく前、私の母が心筋梗塞で入院しました。救急車で運ばれ、ICUに入るほど危険な状態でした。入院中、母は何度も「ここはどこ?」「なんでここにいるの?」と繰り返しました。「突然倒れて救急車で運ばれ、入院しているのよ」と説明しても、翌日にはまた「なんでここにいるの?」と不満げな表情で聞いてくるのです。母のその状態に、妙案で対抗したのは6人いる孫の一人でした。ベッドのそばにあった折り紙に、「何月何日、焼鳥屋さんで倒れて、救急車で、○○病院に入院」と母(孫にとっては祖母)と一緒に思い出しながら、母の手で書いてもらったのです。「緊急手術、成功」と。「子どもたち(祖母にとっては孫)が、お医者さんに何回も、『手術、痛くしないで』と言ってくれた♡」。少し乱れた字でしたが、自筆で書いたものをベッドの台の上に置いておくと、自分の状況を理解するようになりました。これは、リアリティ・オリエンテーションという専門家が使う方法です。それを知ってか知らずか、孫が行ったのには感心しました。その後も孫たちは、途切れないようにシフトを組んで母を看病し、無事退院することができました。
自筆で書くと、自分の置かれた状況を否定できなくなるという効果もあります。これは販売業に携わっている方から聞いたことですが、確かに本人が注文しているのに、自宅にものが届くと「注文していない」とおっしゃる方がいると。お年寄りのお客さんに多いそうです。そこで、注文票の住所や名前を自分で書いてもらうようにしたと。すると、「私が書いたのか……」と理解して、苦情を取り下げるようになったそうです。そんなふうに、記憶の低下を補うための工夫はいろいあるはずです。そもそも、私たちは体験したことのほとんどは忘れて生活しているのですから、もの忘れや記憶の低下を悲観しないで、楽しく思い出せる方法を実践してみてはいかがでしょうか。
2017年1月
プロフィール
黒川由紀子
くろかわ・ゆきこ●1956年東京都生まれ。東京大学教育学部教育心理学科卒業。保健学博士、臨床心理士。東京大学医学部精神医学教室、大正大学教授、慶成会老年学研究所所長を経て、上智大学・同大学院教授。ミシガン大学老年学夏期セミナーの運営委員などを務めた。著書に、『日本の心理臨床5 高齢者と心理臨床』(誠信書房)、『いちばん未来のアイデアブック』(木楽舎/監修)など。