「健康寿命延伸都市」を支える松本ヘルスバレー構想

第5章

地域企業の健康経営も支える
「松本ヘルス・ラボ」

インタビューに応えていただいた、松本市商工観光部の小林氏と丸山氏


インタビューに応えていただいた、松本市商工観光部の小林氏と丸山氏


現役世代の健康づくりと健康経営の両立

ここからは、松本ヘルス・ラボの法人会員制度について焦点を当てていく。

松本ヘルス・ラボは地域の法人で働く従業員に向けた、健康づくりのフィールドを提供している。
会社単位での入会を基本とし、従業員一人当たりの年会費(3,000円)は会社・経営者側が従業員全員分を一括で負担する。これに対し、松本ヘルス・ラボは会員企業の従業員向けの健康サービスやプログラムを提供する。またそこで得られる従業員の健康情報を経営者にフィードバックする。

注目すべきは、この仕組みが特に中小企業をターゲットしていることだ。大企業の社内には、概ね産業医や保健師が設置されており、自力でも健康経営ができている。しかし、中小企業にはそのような人材もいなければ、それを雇用する資金もない。更には、健康経営を実現する方法、そしてそれに充足する時間さえもないというが現実だ。しかし本来は、人数が少ない中小企業にこそ、健康経営の価値が見出せる。人数が少ない企業は、一人が抜けただけで業務が滞り、倒産さえ引き起こすリスクがある。大事な従業員一人一人の健康維持が経営の健全化に直結するのだ。

一方で、松本ヘルス・ラボには市民会員だけでは不足している「現役世代の会員」を、何とかして獲得したいという課題があった。このような背景もあり、企業とそこで働く従業員、そして松本ヘルス・ラボの三方のメリットを追求すべく創設されたのが法人会員制度である。


松本ヘルス・ラボが提供する健康経営プログラム

では、松本ヘルス・ラボが法人会員に向けて提供するプログラムとは具体的にどんな内容なのだろうか。

まず、中小企業の経営者が保健師と対面でカウンセリングをすることから開始する。保健師は経営者からその企業の専門的な業務内容も含んだヒアリングを行うと共に、そして従業員の健康診断の結果を見せてもらう。そこまで話を突っ込む理由は、事務系の企業、小売業の企業、そして建設業のそれぞれで罹患リスクが高い病気が違うからである。こういう点を踏まえて健康に関する個別指導を行う。

次に、個々の従業員に対してもカウンセリングを行う。その上で、その企業に合った健康づくりプログラムを策定していく。

例えば、社員間のコミュニケーションが足らないという課題が顕在化すれば、従業員が体育館に集まってみんなでバトミントンをするなど、レクリエーションの実施計画を手助けすることもある。この他にも、健康に関する講座の開催や、食事に関する指導、そして個別のカウンセリングなど提供されるプログラムは多岐にわたる。

バトミントン

 


経営者に対する健康経営実践の啓蒙

松本ヘルス・ラボでは、企業の従業員に向けた健康づくりのためのプログラムを、基本的に就業時間内に行うよう、経営者にお願いしている。従業員の健康づくりは、健康経営という大目的を達成するためのプロセスである。ならば、健康経営を行うことが労働生産性に繋がるという因果関係を成立させねばならない。例えば、会社が就業時間外にプログラムを実施しようとすれば、これは従業員にとっては拘束時間が長くなるだけでやらされ感に繋がってしまう。そうではなく、プログラムを労働時間内に実施することを前提にして、早めに業務を終わらせ参加することを促せば、従業員は努力して調整してくれる。そして「やればできる」という感覚をも体現できる。これがまさに労働生産性の向上であり、この状況の維持こそが健康経営の具現化と言える。

松本市商工観光部 丸山氏
松本ヘルスバレー構想の運営メンバーである丸山氏


モノづくりの街の変遷、そして県民性

松本ヘルス・ラボが地元企業の関係性を重要視するのには、もう一つ大事な理由が垣間見える。それは松本ヘルス・ラボの行政側の窓口が市の商工観光部健康産業・企業立地課だという事実と関係がある。
同課は文字通り、市内への企業誘致活動も使命としており、そのために東奔西走しているのだが、そんな松本エリアの産業界において、今、新しい企業誘致の形が生まれようとしている。ここでは、直近20年程度で松本エリアの産業界に起こった変化を辿りつつ、今の松本で起こっていることを浮かび上がらせてみたい。

松本市がある長野県は、とかく新しいものが生まれにくい土地柄だと言う。それを裏付ける指標として、全国の都道府県の中で最も起業数が少ない県だということが挙げられる。一方で、精密部品などの供給量では全国でトップクラスを誇る。つまり「あなた色に染まる人」は多いが、「あなたを染めるという人」は少ない県民性とでも言おうか。そんな背景もあってか、モノづくりの街として成長してきた松本には、かつて各ジャンルにおいて多くの熟練工が存在した。しかし2000年代初頭を迎えると彼らのうちの多くが中国など海外に流出し、残った熟練工の賃金も高騰化していった。

その後、リーマンショックを迎える。この頃、松本においても仕事が激減した。高い賃金を得ていた熟練工たちも、ある者はリタイアし、ある者は職を替え、その数は激減した。

そこから数年を経て日本経済も復活傾向に差し掛かった頃、松本のモノづくりもリスタートを試みたが、しかし熟練工不在の状況は変わらず、結果として迅速な対応ができなかった。

それでもその不足を補おうとして、市全体的に設備投資額が一時的に伸びたが、結局のところ熟練工レベルの技術力に至ることはできず、現在でもその問題は後を引いている。

松本のモノづくりの特徴は「精度」にあり、熟練工の技術は精度を高める「目」にある。精度の高いものをたくさん作りたいが、そのための目を失ってしまったのだ。「目」に変わる設備として、センサーや検査機器などに多くの投資を行ったが、それでも最終的にはメーカーからのオーダーに呼応するレベルには至らなかった。

事業継承が大変な時代を迎えている。松本においても、事業主の子供たちが親の技術と苦労の両面を見てしまっているため、「自分たちが親に追いつくことなどできない」、「自分たちが熟練の技術に至れない」という負のマインドに陥っているという。

そういう背景もあってか、事業継承を前提にしたM&Aの事例が増えている。売却益を得るためではなく、事業継承のみを目的としたM&Aである。事業継承がうまくいかない企業を、その取引先である元請企業が買収し、自社での内製化のためのラインにする。

もちろん買った企業はリスクを背負うことになるが、メリットもある。今は、熟練工どころか、人を集めるだけでも難しい時代である。リクルーティングに多額の費用をかける位ならば、M&Aで人員とラインを確保するという考え方の企業もある。仮にそこに熟練工が含まれていたりすればメリットが倍増する。

松本のように、地方でモノづくりを中心産業にしている地域では、今後このような「地方版中小企業M&A」という形はさらに活性化すると見られており、事実、長野県も企業誘致の活性化モデルとして、この形態のM&Aに対し推奨の立場をとっている。

ただし、当然の如く企業誘致活動を推進している地方自治体は松本市だけではない。企業誘致合戦はまさに群雄割拠の状態で、例えば、首長自らがトップセールスを行う自治体や、モノづくり人材育成のための奨学金制度を創設する自治体、はたまた固定資産税や都市計画税の相当額の実質免除をうたう自治体も存在する。自治体同士の競争は激化の一途を辿る中で、今後の松本市は「働く人の健康づくり」と「企業の健康経営」の実現をアピールポイントとした先駆的なメッセージを訴求可能になる。そのエビデンスとして松本ヘルス・ラボの存在がある。これは、昨今、従業員満足度やコンプライアンスを重視する傾向にある大企業にとっては、大いに注目に値するポイントであろう。松本ヘルス・ラボの存在をきっかけとした松本市の企業誘致事例を聞くことができる日も近いかもしれない。

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